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あなたの問題解決に役立つと思われるサイトをリンクしました。



@ 日本弁護士連合会(法律相談、借金問題等)

A 日本司法書士会連合会(借金問題等)

金の問題は法律の専門家で解決しよう!!
※もしご相談される場合は悪徳弁護士等もいますので弁護士会等でよく調べてからの方がいいと思います。




   
B 生きる(国の自殺防止サイト)
   
C 全国クレジット・サラ金被害者連絡協議会
(多重責務者の救済方法等)
   
D 警察による犯罪被害者支援ホームページ
(各都道府県警察の被害相談窓口等)


プラス思考を選択せよ!!

重要
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これからのあなたの人生の中で何かの問題や悩み(いじめ含む)に直面した時の考え方のコツ
[問題点を0(ゼロ)の位置とする]

決して一人で問題、悩みを抱え込まない。
信頼できる人に相談する

 
上記の左側のマイナス思考は無視して下さい。問題、悩みが発生したときプラスの方向へ考え方を変える事ができれば解決の方向へ向かいます。このホームページには考え方をプラスの方向に変えるコツの一部を紹介しています。
何回も読んでそのコツを発見して下さい。
問題、悩みが発生したときのキイワード=明るい考え方に方向転換
(苦にしない、気にしない、くよくよしない)

(いろいろマイナスの出来事に遭遇したら”まあ、何とかなるさ”と楽観的に考える習慣をつけよう!)
何事も敏感にならないで図太く、鈍感に生きようではないか!!
どんなことがおきても平気で生きよう!!



(人生丸の船長はあなたです。この船はコンピューターによる自動操舵で航行していくのではありません。あなたの''心,,という制御装置で航行していくのです。その装置の性能をアップさせ、無事にゴールするには''心を磨き、鍛える,,しか方法がないのです。)

人生上の様々な困難、逆境、トラブル等は表面上だけ見ればマイナスのことのように見えますが、実は「新しい人生の価値を発見する大きなチャンスでもある。」ということがいえるのです。自分を見つめ直す絶好のチャンスでもあり、あなたの潜在能力を発見することができる可能性を持っています。すなわち、古い自分を捨て、新しく生まれ変わることができるチャンスでもあるのです。「生まれ変わる」キイワードは「考え方」にあります。ただ単に、マイナスの面ばかりにとらわれないで、そこに隠れているプラスの価値を発見してください。
この機会に主体性を持った人生へ

※ついつい人間は「俺が(私が)、俺が(私が)・・・」となりがちです。自分の考えは大切なのですが、あまりにも自己中心的になってしまうと本質を見失うことになります。注意してください。


引きこもり息子の甚五郎

塩原温泉の温泉宿「もみじ屋」の「損だべぇー娘のお竜さん」の問題を解決した修行僧の聖心は次の宿泊地の日光へと急いでいました。日光では大きな問題が待ち受けているのでした。聖心は、はたしてどんな方法でこの問題を解決するのでしょうか? 尚、この物語はすべてフィクションです。

作者 児玉春信

塩原温泉を出発し、途中で「損だべぇー娘のお竜さん」らと別れた修行僧の聖心は日光へと向かっていました。街道の途中の村々では相変わらず子どもたちが聖心に向かって「この乞食坊主あっちへ行け!! あっちへ行け!!・・・・」と言っては石を投げつけて馬鹿にしていました。そんな子供たちに聖心は「人を見た目で馬鹿にすると天罰が下るぞ!!」と怒鳴っていました。それを聞いた子供たちは「うちの母ちゃんが世の中で一番大事なのは金だ、と言っていた。金を持っている人間が一番偉いんだ!! 天罰もくそもねぇ!!」と言い返してきたのです。聖心はそれを聞いて「世も末か!?」と心の中で思いました。そしてすぐに子供たちに「この馬鹿やろう!! 金(かね)は月と同じだぞ。満ちたり、欠けたりするぞ。しかし、そうはいっても金も大切だが、まず人間は月より太陽にならなければならないんだ。ダイヤモンド魂をもたなければならないんだ。うちへ帰ったら母ちゃんにそう言っておけ!! 分かったか!! そしてなぁ、お前たちがやっていることはすべて天が記録しているのだぞ!! 天を馬鹿にするものでねぇ!!」と言い聞かせていました。そんなことを言っている間にあたりは少し暗くなってきました。聖心は日光の温泉宿へと急ぎました。

 日光に着いた聖心は「さてどこの宿に泊まろうかなぁ?」と思ってあたりをきょろきょろと見回していたら突然大きな声がしてきました。「俺がこんな人間になったのは父ちゃん、母ちゃんのせいだ!! 2人とも死んじまえー!!」という大きな声が聖心の耳に入りました。聖心はただ事ではないと思い、その声のするほうへと行って見ました。そこは「イロハ屋」という温泉宿でした。そして恐る恐る「こんばんわ、何かあったのですか?」と言ってその宿の玄関に入っていきました。するとその温泉宿の主人が出てきて「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました。おーい、お菊や、お客様だぞ。足を洗ってやっておくれ」と言いました。すぐにその主人の女房のお菊が来て聖心の足を洗い始めました。聖心は「まだ、ここに泊まるかどうかは決めていませんでしたが、きょうはお世話になることに今決めました。ところでさっき大きな声がしたのですが何かあったのですか?」とお菊に言いました。お菊は「お坊さんだからおはなししますが、実は一人息子の甚五郎がおりまして、その息子が大きな声を出したのです。いつも近所に迷惑をかけています。どうしようもない引きこもり息子に育ってしまいました。正直いって手を焼いています」と足を洗いながら聖心に語りました。すると聖心は「詳しいことは分かりませんが尋常ではなさそうですね。もしよろしかったら夕飯を食べたあとに詳しいことを聞かせてくれませんか。こんな乞食坊主ですが、もしかしたら力になれるかもしれません」とお菊に告げました。それを聞いていたお菊は「そう言っていただいても初対面だし、それにうちのことですから。でも一応主人と相談してみます」と言いました。それで聖心は「分かりました」と言って自分の泊まる部屋へとお菊に案内されて行きました。

 温泉にゆっくり入って夕飯も食べ終えて横になって休んでいると、そこの主人とお菊が聖心の部屋へやってきたのでした。主人が「お休みのところ誠に恐縮です。私はここの主人の甚助と申します。これは私の女房のお菊と申します。お菊から相談を受けまして、あなた様にいろいろと相談してみようということになりましたのでお尋ねしました」と聖心に言ってきたのです。それを聞いた聖心は「そうですか。こんなわしでもよければお力になれるかもしれません。それにしても甚助殿、日光もいいところですね。イロハ坂からの景色はすばらしいというではないですか。それに華厳の滝という実にすばらしい滝もあるし、上州へ行くとき見ていこうと思っております。それにしても温泉もいいし、人情もあり料理もうまい。女の人もきれいだ。言うことなしですねぇ。ところでわしも最初びっくりしてしまったよ。いきなり、死んじまえーだからな。まぁ、それで縁があったわけなんだが。どうしたというのですか?」と甚助に話しました。甚助は「その前に、お客さんは旅をしながら修行しているお坊さんですか?」と言ってきたのです。それを聞いた聖心は「すまん、すまん、自己紹介が遅れました。そうです、わしは全国を旅しながら修行している修行僧の聖心と申します。世の中も荒れてしまいまして、何でも金、金、金の世の中になりましてねぇ。途中で会う子供たちでさえ金のことを言ってます。それに加えてやたらと自らの命を自分で絶つ人間も増えましてねぇ。こんなすさんだ世の中をこの目で見てみたくなりまして旅をしている者です。着ているものは汚いですが勘弁してください。金がないもので新しいものを買うことができないのです。まぁ、こんな者ですが縁があったと思って何でも話してください」と言いました。それを聞いていた甚助は「そうだったのですか。分かりました。それでは詳しいことを女房のお菊のほうから話してもらいます。お菊、聖心さんに息子の甚五郎のことを詳しくお話ししておくれ」とお菊に言いました。それを聞いていたお菊は「はい。分かりました。実は私の家は5人の男の子供がいたのですが、4人小さいときに死んでしまったのです。息子の甚五郎は末っ子です。そのために大事に、大事に育てました。そして跡取りは甚五郎なので18歳のときに那須の那須温泉の大きな温泉宿に板前の修行に出したのです。ところが半年もしないうちに何があったのかは分かりませんが、突然うちに帰ってきたのです。何とか一人前になってもらおうと思っていたものですからびっくりしてしまいました。詳しいことは何一つ話さないのです。それ以来うちに引きこもってただ自分の部屋にいます。時々、起きてきては「こんな俺になったのは父ちゃんと母ちゃんのせいだ。2人とも死じまえー!!」と怒鳴るのです。主人とわたしを責めるのです。そして時々暴れます。部屋の中はしっちゃかめっちゃかです。時々私が掃除をしています。一人でできないのです。大きな声を出すものですから世間様に申し訳なくて。本当に困っています。何かいい知恵はございませんでしょうか?」と聖心に話しました。それを聞いていた聖心は「そうですか。それはご心配ですね。最近甚五郎さんのような若者が多いのです。若者だけではなく30代から50代にかけてもそんな人が増えているのです。全国を旅しているのでそんな情報も入っています。困った問題です。ところで今まで甚五郎さんは何か問題を起こしましたか?」と甚助に話しかけました。それを聞いていた甚助は「板前に修行に行く前にやたらとお店から何かを買ってはお店に金を払わないことがありました。そのたびに私が店に謝りにいってお金を払っていました。そんなことがありました」それを聞いていた聖心は「うーん。そんなことがあったのですか。ところで子供のときに何か問題を起こしませんでしたか?」とまたもや甚助に聞きました。すると甚助は「寺子屋に読み書きを習わせているとき、よく忘れ物をしたのでうちのお菊が少し離れている寺子屋までその忘れ物を届けに行ってました」と言いました。聖心はすぐに「うーん。そうですか。そんなことをしていたのですか」と一言いったきり黙ってしまいました。しばらく沈黙が続きました。そして突然聖心が「2人に確認したいのですが、子供の頃2人で甚五郎さんをかわいがりましたね」と言ったのです。それを聞いた甚助は「はい。4人も死んだものですから、それは、それはかわいがりました。何でも望むものは与えました」と聖心に返答しました。それを聞いていた聖心は「まあ、この引きこもりというのはなかなか難しい問題なのです。一面的に考えられない問題なのです。しかし、今、お話を聞いて甚五郎さんの場合はどうも親の育て方に問題があったように思えてならないのです。甚五郎さんの自立心や責任感をことごとくつぶしてきたのではないのかと。子供がかわいいのは分かります。かわいがらないとだめなことも分かります。植物は肥やしをやりすぎとだめになってしまいます。人間も植物と同じで愛情という肥やしをやりすぎると育たないのです。自立心や責任感が育たないということです。宇宙の法則というのはそういうものなのです。少し厳しい環境のほうが植物は自らの力で栄養を吸収しようとがんばるのです。その結果しっかりとした根になり丈夫な植物に育つのです。人間の精神もそういうものなのです。雪の多い北国の木は材質がしっかりしてます。それは厳しい風雪に耐えた結果そうなるのです。逆に南の木はその逆です」と言いました。それを聞いていたお菊は「それではどうすれば甚五郎は一人前になることができるのでしょうか?」と聖心に質問してきました。聖心はしばらく考えて「うーん。きょうはここまでにして一晩考えさせてください。明日どうするかお話します」と2人に告げました。それを聞いた甚助は「分かりました。よろしくお願いします」と聖心に懇願したのでした。そして2人は聖心の部屋から出ていきました。

自分たちの部屋へ戻ったお菊は甚助に「なんだかあのお坊さん大丈夫かしら。姿かたちをみたらそんな疑問が湧いてきわ。あんなどこの馬の骨かも分からないお坊さんに大切な一人息子のことを託して本当に大丈夫なのか、心配になってきました」と言いました。それを聞いた甚助は「言葉に気をつけなさい。人は見た目ではありません。話を聞いていたのですが、まっとうな話だと思いました。間違ってはいないように思います。本当は私たちが間違っていたのかもしれません。ここは聖心さんにお任せするしか道がないようだ。聖心さんを信じるのです」とお菊に言い聞かせました。それを聞いたお菊は「そうですね。あとは方法が浮かびませんものね」と言いました。そして2人は明日の朝食の仕込みをして風呂に入り寝ました。

聖心は一人悩んでいました。塩原温泉のお竜さんはうまくいったが、果たしてこのうちの、せがれの引きこもり問題はうまく解決するかどうか自信がなかったのです。引きこもりは複雑な問題がからんでいる場合が多いので単純な発想ではなかなか解決しない問題だと分かっていたので、聖心の苦悩は深まるばかりでした。そのためなかなか寝付くことができませんでした。しかし、一つの考えがよぎりました。ある一つの考えに賭けてみようと思ったのです。そして寝酒用の日本酒を少し飲み、安心したのか自然と眠込んでしまいました。

夜が明けました。朝食も終えて、自分の部屋に休んでいると甚助とお菊がやってきました。そして開口一番甚助が「聖心さん、何か良い知恵は浮かびましたか?」と言ってきたのです。それを聞いた聖心は「まあ、お2人とも座りなさい。まずはお茶でも飲みましょう」と言って聖心自ら2人にお茶を出しました。二人は恐縮そうにそのお茶を飲みました。しばらくすると聖心は「この問題はなかなか一筋縄では解決できません。お2人に覚悟を決めてもらわないと取り掛かれません」と言ったのです。それを聞いたお菊はびっくりした様子で聖心に問いただしました「覚悟とはどういう覚悟ですか?」と。それを聞いた聖心は「生きるか死ぬかの覚悟です」ときっぱりと言ったのです。その言葉を聞いた2人はびっくりしてしまいました。そして顔を見合わせてしばらくそのままでいました。そして甚助が「そんな大げさな問題なのですか?」と言ってきました。すると聖心は「そうです。甚五郎さんの一生の問題です。そしてこのイロハ屋の将来の問題です。あなた方はきのう聞いた限りでは三つの間違いを犯しています。一つはお金の問題です。甚五郎さんがお店に支払わなかった代金を代わりに支払ったこと。それと忘れ物をしたとき、お菊さんが持っていったこと、それと甚五郎さんの部屋の掃除です。この三つです。まずお金を支払わないと世の中ではどうなるのかということを、身をもって知らしめる必要があったのです。支払わなかったお店から奉行所に訴えてもらい甚五郎さんを捕まえるべきだったのです。あなたはそれではかわいそうだ、と思われるかもしれません。しかし、そのかわいそうだ、かわいそうだ、というのが甚五郎さんをますます図に乗らせ、真実を知る機会を奪ったのです。そして親をなめてしまう人間にしていったのです。それでだめになったのです。お金を支払わなければ世の中というのはこういうことになるのだぞ、という絶好の教育の機会をつぶしたのです。それと忘れ物ですが、これも自分で忘れたのだから甚五郎自身に取りにこさせれば良かったのです。これも自分の責任という自覚を育てる機会をつぶしてしまったのです。次に部屋の掃除です。そんなものは本人にやらせればいいのです。どんなに汚れても決して親が手を出してはいけません。自分の部屋は自分で掃除をさせるのです。仮に蛆(うじ)が湧いても手を出してはいけません。その中で生活させるのです。掃除をしなければどうなるのかということを体験させるのです。この毅然とした親の態度と覚悟が大切です。最後は親が何とかしてくれるだろうという甘えがあるのです。これでは自立心も自主性も育ちません。厳しい言い方かもしれませんが、こういう細かいところが大事なのです。要なのです。ただかわいそうではだめなのですよ」と2人に諭しました。それを聞いていた二人は肩をがっくり落としてしまいました。そして甚助が「聖心さん、さっきの覚悟ですが、もう少し詳しくお願いします」と言いました。すると聖心は「甚五郎さんの命をわしに預ける覚悟ということです。きのうきょうと二日だけの付き合いですがこんな乞食坊主に大切な一人息子の命を預けることができるかどうかということです。すべてをわしに任せてもらえるかどうかということです。仮に甚五郎さんが途中で死んでも奉行所に訴えないということです。一筆書いてもらうということです。それで生きるか死ぬかと言ったのです」ときっぱりと甚助に言いました。それを聞いたお菊は「なんだか怖くなってきました。聖心さんそんな荒っぽい方法で本当に大丈夫なのですか?」と質問してきました。すると聖心は「いや、時には荒っぽいこともやるかもしれませんが、基本はそうではありません。甚五郎さんは何も分かってはいないのです。親のありがたみや、食べ物のありがたみ、空気のありがたみ、世の中のありがたみ、今生きていることのありがたみ、金のありがたみ、この家に生まれたありがたみ等など、数え上げればきりがありません。とにかく何も分かっていないということが甚五郎さんの心をだめにしている原因だとわしは思うのです。もしかしたらわしの見当違いかもしれません。しかし、わしの経験からするとどうもそんな気がしてならないのです。人間はありがたみが分かったとき、一つの悟りを得るのです。昔わしの同僚で檀家から少しの野菜をもらってきては捨てていた不届き者がいたのです。少しの野菜では心から喜べなかったのです。この者は少しの野菜のありがたみと、檀家のまごころというものがまったく分かっていなかったのです。おそらく小判だったら捨てなかったでしょう。しかし、いくら小判でも少なければきっと不満を言ったでしょう。少ない野菜でも人からもらったら心の底から感謝できる人間にならなくてはいけません。人がくれた物ではなく、その人の目には見えないまごころにまず喜びを感じなければなりません。そしてまごころという価値が付いている野菜のありがたみを心から分からなければなりません。ありがたみやまごころというのは目には見えないものなのです。この目には見えないものの価値が分からないと人間はだめになるのです。その野菜を捨てた不届き者は最後にはだめな人間になってしまいました。今は島流しの刑に処せられて八丈島にいます。一生そこから帰ってくることはできません。人間はありがたみを忘れると精神がだめになるのです。わしは人間をまず見るときはそこのところをよく見ます。そこが要だと思っているからです。ですから基本はそういうところにおきます。しかし、時には肉体もいじめなければなりせん。百姓のせがれで、引きこもっている者はいません。彼らは鍬(くわ)を使って朝から晩まで田んぼを耕しています。全身の力を使い、働いているのです。そして夜は酒を飲んでぐっすり寝るのです。ですから肉体労働は人間の精神にはいいのです。楽をすると人間の精神は軟弱になると思っています」と言いました。すると甚助は「なるほど。少しは分からないところもありますが、なかなか良い考えではないでしょうか。覚悟がいるということが良く分かりました。それで具体的には私たちはどうすればいいのでしょうか?」と質問してきました。聖心はすぐに「具体的にはこの宿屋にわしと甚五郎さんの二人で住むということです。お二人はこの家から出て行き、どこかで借家を見つけてこの宿屋の奉公人になってもらいます。主人は甚五郎さんです。すべて甚五郎さんに任すのです。何があっても決して口を出してはなりません。ここが肝心です」と返答しました。それを聞いていたお菊は「私たちがここから出て行くなんて何か変です。甚五郎が出て行けばいいのです。そしてここへ通ってもらうのです。それではだめなのですか?」と聖心に聞いてきました。すると聖心は「それではだめなのです。宿屋の経営がいかに大変なものかを身をもって分かってもらうためには主人になってもらわないと分からないのです。そしてお2人が今までいかに苦労していたのかということを心の底から分かってもらう必要があるのです。わざと苦労させるのです。苦労しないと人間の魂は磨かれません。楽を選択していくと魂は錆びる一方なのです。ここも要です」ときっぱりと言いました。そして「ここは鬼になってもらわないといけません。あなた方は何か勘違いをしていたのです。優しい愛だけが愛だと思っていたのです。愛には厳しい愛も必要なのです。突き放す愛も必要だということです。この手綱(たづな)を使わないと人間がだめになるのです。何でもかんでも至れり尽くせりではだめなのです」と少し語気を強めて言いました。それを聞いていた甚助は「お菊、ここは一つ聖心さんを信じて任せてみようじゃないか。どうも私たちは聖心さんの言うとおり何か勘違いをしていたように思えてきたよ。大変なことだけど腹をくくろう」と言いました。しかし、お菊はなかなか合点がいかない顔をしていました。そしてお菊が「聖心さん、きょう一日考えさせてください。頭の中が整理できません。主人と2人で相談してみます」と聖心に言ったのです。それを聞いた聖心は「分かりました。きょう一日考えてください。無理にとは言いません。このやり方はお二人の承認と協力が必要です。よく話し合って決めてください」とお菊に言いました。そんなことで一応話は終了したのでした。結論は明日に持ち越されました。

(ここでちょっと一服コーヒータイム)  商品コンセプト

メルシーちゃんはあなたの人生の応援キャラクターです

 部屋に戻った二人は少し疲れたので横になりました。そしてお菊が「大変なお坊さんに縁がありましたねぇ。こっちが家を出て行くなんてどうも理解できません」と甚助に言いました。すると甚助は「いや、理にかなった考え方かも知れんぞ。今まで何の苦労もしてこなかった甚五郎にはちょうどいい機会かもしれない。聖心さんの言っていることはまんざら間違ってはいないと思えるのだ。お菊よ、ここは聖心さんの言うとおりにやってみないかい?」と言いました。するとお菊は「そうですねぇ。ここは天が与えた試練と思って聖心さんにお任せしてみるのも一つの手かもしれませんねぇ」と言いました。甚助は「よし、決まった。甚五郎には今晩伝えよう」と言って、二人は少し疲れたのでそのまま昼寝をしてしまいました。

そんなことが進行しているということも知らずに、甚五郎は部屋の中で悶々としていました。そして時々奇声もあげていました。俺がこうなったのは親が悪いのだ、世間が悪いのだ、生まれてきたのが間違いだったんだ、那須温泉の板長のやろう、偉そうに威張りやがって、ちくしょう!! 等などと自分の心など一つも省みず、常に人のことをこのように悪く思っていました。そうなのです、甚五郎はすべて俺がこうなったのは俺が悪いのではなく、自分以外のものが悪いのだ、と考えていたのです。その考えから抜け出すことができなかったのです。

夜になりました。甚五郎が甚助とお菊に呼ばれました。甚助が「甚五郎、実はなぁ、明日からわれわれ2人はこの家から出て行くことになった。ご飯もすべて自分ひとりで料理して食べるんだぞ。お前にこの宿を任すことになったのだ。お金も全部任す。ただし、今お泊りになってる聖心さんが、お前の面倒を見ることになっている。すべて聖心さんの言うことをきくのだぞ。分かったか?」と言ったのです。驚いた甚五郎は「えー!! 一人で全部やるのか?」と甚助に言いました。すると甚助は「母ちゃんと父ちゃんはこの宿の奉公人として毎日通う。ただし何が起きても口は絶対に出さないことになっている。お前がすべてこの宿を仕切るのだ」と言いました。するとお菊がすぐに「父ちゃんと母ちゃんはお前を何とか一人前にしてやりたいのだよ。もしそれがいやなら家出してもいいよ」と言ったのです。しかし、甚五郎にはそんな根性はありませんでした。よく分からないまま甚五郎はしぶしぶ了解させられました。そしてこんなことになったのは聖心というどこの馬の骨か分からない乞食坊主のせいだと考えたのでした。そして心の中で「あのくそ坊主め、今に見ていろ。ただではおかないからな」と考えたのでした。すべて人のせいにしていた甚五郎ですから、そういう思いに至るのは当然でした。

 そして夜があけ、すべてを任すことを聖心に告げた甚助とお菊は家を出て、宿から少し遠い借家を借りました。本当に出て行ったのでした。聖心と甚五郎の闘いがいよいよきって落とされたのです。甚五郎は聖心を恨んでいますので聖心を見るなり「このくそ坊主、よくもこんなことをしてくれたなぁ!! 俺は絶対にお前の言うことなどきかないからな!!」と言ったのです。その言葉を聞いた聖心はいきなり縄を持ってきました。そして甚五郎に何も言わずにあっという間に体に縄を巻きつけて縛り始めました。ふいをつかれた甚五郎は「な、な、な、なにをするのだ、このくそ坊主め!! このくそ坊主め!!・・・・」と何度も何度も言いましたが聖心は一言も口を利きませんでした。そしてそのうちに宿屋の裏手にあるイチョウの木の枝に縄を投げて甚五郎を上につってしまいました。これではさすがの甚五郎も手も足も出ませんでした。「ちくしょう、何をしやがる、今に見ていろ、このくそ坊主め!!・・・・」と叫ぶばかりです。それを聞いていた聖心は初めて口を開きました。「今までお前はうまくいかないと、すべて人のせいにして生きてきただろう!! そんなお前の腐った根性を叩きなおしてやる。いいか覚悟しろ。お前が死ぬか、わしが死ぬかの闘いだ!!」といきなり言ったのです。それを聞いた甚五郎はびっくりしてしまいました。そして怖くなりました。あんなに威勢のいいことを言っていたのがピタリと止まりました。聖心は「人間は自分の顔が見えないのと同じく、自分の心は見えない。見ようともしない。しかし、人のこととなるとよく見えるものだから、自分がうまくいかなくなるとすべて人のせいにしたくなるのだ。そのほうが楽だからな。お前は今まで自分を省みることをしてこなかっただろう。一晩頭を冷やして今までのことを振り返って自分を見つめ直せ!! 分かったか!!」と甚五郎に強く言ったのです。それを聞いた甚五郎は「くそー、くそー・・お前は何の権利があって俺をこんな目にあわせるんだ!! くそー、くそー・・・・」と言うばかりでした。今までそんなことを言う人と、ここまでやる人はいなかったのです。否(いや)が応でも甚五郎は今までのことを考えざるを得なくなったのです。その晩甚五郎は一晩中泣いていました。母ちゃんと父ちゃんはいるのにいっこうに助けてくれません。見てみぬふりです。甚五郎は涙も枯れてしまいました。そして相当の体力を消耗してしまいました。

翌朝になりすっかり気力がなくなっていました。それを見た聖心は「だいぶ参ったようだな。これではわしにかかってくる元気もなさそうだ」と言って、枝にぶら下っている甚五郎を降ろして縄をほどいてやりました。案の定、甚五郎は立てずに横に寝てしまいました。聖心は「体力があるのに毎日毎日家にいてはおかしくなるのも当然だ」と思ったのでした。甚五郎は、今度は腹が減ってきました。聖心に「腹が減ってきたのでなんか食べさせろ!!」というではありませんか。聖心はすかさず「今まで黙っていてもご飯が出てきただろう。自分で作って食べたことなどないだろう。お前が食べているものは全部お店から買ってこなければないのだぞ。買うにはお金がいる。お金を稼ぐには働かなければならない。それなのにお前は働いていない。親の金で買ってきた食料で親から料理してもらい、ただその料理を食うだけだ。そしてお前は親が建てた家で家賃も払わないで平気で暮らしている。自然界の動物を見てみろ。みんな食うために必死だ。自然界は食うか食われるかの世界だ。人間もきれいごとを言っているが似たようなものだ。しかし、自然界と違うところが一つある。それは仏性の魂であるダイヤモンド魂をもっているということだ。生存競争は厳しいが、この魂のおかげで本当の生きる本質を見失うということはない。しかし、この魂を見失ったとき戦(いくさ)がおきるのだぞ。お前も本来このダイヤモンド魂は心の奥底に持っている。しかし、いろんなことが原因でなかなか表にでてこないだけなのだ。お前は今この大事なダイヤモンド魂を完全に見失っている。この大事なダイヤモンド魂を心の中心にすえて生きていくことが大事なのに。人間も自然界の動物と同じく毎日が戦いなのだぞ。何と戦っているかというと、まずは自分との戦いだ。人間の最大の敵はまずは己なのだ。敵は他人ではないぞ。内なる心の敵がお前の心の中に住み着いているのだ。そいつをまず、ダイヤモンド魂で一掃しなければならない。先入観念や雑念、妄想も一緒に一掃される。その戦いにまず勝利することだ。次に競争という戦いだ。この戦いが原動力となって人間は進歩している。ここから逃げてしまうと心はどんどん言い訳という実に心地よい理屈を作り始めるのだ。お前はここが分かってない。この厳しさと心の原理が分かっていない。人間が生きていけるのは魚や動物たちを、知恵を使って捕まえてきて食べているからだ。人間が一枚も二枚も上ってことだ。食うか食われるかの食うほうが人間だ。そんな一枚も二枚も上の人間のお前が人生うまくいかないのは俺が悪いんじゃない、人が悪いんだ、親が悪いんだ、世の中が悪いんだ、と全部責任を他に押し付けている。これはお前の心が故障しているからだぞ。故障しているからうまくいかないのだ。いいか機械でもどこか故障していればうまくいかないものだ。もし機械が故障したらどうする? どこが故障しているのか機械の中を見てみるだろう。そして故障しているところを発見してそこを修理して動かすだろう。お前は心が故障しているにもかかわらず、その故障しているところを発見しようともしない。これではお前の人生がうまくいくはずがない。心というのはほとんど考え方ということだ。お前は考え方というところが故障しているのだ。考え方というのは人が直せるものではない。自分で苦労しながら直すしかないのだ。お前をだめにしているのはその故障しているところを発見しようともしないお前自身の心なのだ。それがお前をだめにしている犯人だ。そしてな、お前は食べ物のありがたみ、料理を作ってくれる親のありがたみ、食料を買うことができる金のありがたみが心からまったく分かっていない。ダイヤモンド魂はわしがおいおいと教えてやる。まぁ、しばらく何も食べずにここにいろ。今逃げられないようにこの木に縛るぞ」と言って今度は甚五郎をしゃがんだままその木に縛り付けました。これではいくら腹が減っても何も食べられません。聖心はそのまま甚五郎を木に縛り付けたまま行ってしまいました。

甚五郎は木に縛り付けられた状態で三日間外に放置されました。そんな甚五郎は腹が減って腹が減ってどうにもなりません。今までこんな経験をしたことがありませんでした。とうとう泣いてしまいました。しかし、どんなに泣いてもわめいても食べ物は出てきませんでした。そしてしばらくすると聖心がやってきました。そして甚五郎に「どうだ、食べ物のありがたみを感じるか? 親のありがたみを感じるか? 金のありがたみを感じるか? お前は今まで食べ物に感謝したことはいっぺんもないだろう。親をあごで使ってきただろう。金は天から降ってくるものと思っていただろう。親もお前を王様にしたのが間違いだったのだ」と言ったのでした。そういって聖心は水を少し甚五郎にやりました。甚五郎はこんなにも水がおいしいとは思いませんでした。思わず「うめー、うめー・・・・」と叫んでいました。それを見た聖心は「水がどんなに大事なものか分かっただろう。あまりにも水が普通にあるものだから水のありがたさも分からなくなっていたのだぞ」と甚五郎に言いました。甚五郎は「うん、うん・・・」と何度も首を縦にふり、聖心の言うことに相づちを打っていました。そんな甚五郎を見た聖心は「この人間は助かるかもしれないな」と思ったのでした。そしてその場を離れました。しばらくして今度はおかゆを少し持ってきてやりました。聖心は甚五郎の口におかゆを食べさせました。甚五郎はあまりのうまさに涙を流しました。聖心は心の中で「効いたようだなぁ」と思いました。そして甚五郎に向かって「この米はなぁ、お百姓さんがなぁ、広い田んぼを鍬(くわ)で自分の力で耕して作った米なんだぞ。一日中鍬で田んぼを耕してみろ。くたくたになるのだぞ。それだけでは米はできない。まだまだ重労働しなければならないのだ。そんなお百姓さんのことを考えてこのおかゆをすするのだぞ。そうすればもっとこのおかゆのありがたみが分かるぞ」と言いました。それを聞いていた甚五郎は「うん、うん・・・・」と首を縦にまた振りました。聖心は心の中で「この人間は意外と素直なところがあるぞ」と思いました。そしてイチョウの木から開放してもいいような気持ちになっていきました。しかし、そのことが後でとんでもないことになろうとは聖心は夢にも思っていませんでした。

 おかゆを食べさせてしばらくして聖心は甚五郎に「どうだ、おかゆのありがたみが分かったか?」と質問したのです。すると甚五郎は小さい声で「はい、分かりました」と言ったのです。それを聞いた聖心は「今お前をその木から解放してやるぞ」と言ったのです。そして木に縛られている甚五郎の縄をほどいてやったのでした。すると甚五郎はすかさず走って逃げました。驚いた聖心は「こらー待て!!」と言って追いかけていきました。甚五郎は台所にあった刺身包丁を取りに行ったのでした。そしてその包丁を持ってくるなり聖心に「この野郎!! よくもこんな痛い目にあわせてくれたな!!」と言って聖心めがけて突進してきたのです。聖心は剣術の心得が少しあったので間一髪でその包丁から身を守ることができました。そして甚五郎に向かって「殺せるなら殺してみろ!! お前にそんな度胸があるのか。さあ、やってみろ!!」と言って甚五郎にせまりました。聖心は本当に闘うべきときが来たな、と感じていました。これは避けて通れないな、とも考えていました。お互いの自我と自我の闘いが始まったのです。甚五郎は聖心の迫力に圧倒されていました。いざ、包丁を持って相手を殺そうと思っても手が震えてしまってどうしても次の行動が取れませんでした。聖心はそんな甚五郎のすきを見て、包丁を持っている手を押さえて包丁を取り返すことに成功したのです。甚五郎は腰砕けになりよろよろと崩れてしまいました。そしてがっくりと肩を落としたのでした。まさに生きるか死ぬかの闘いの瞬間でした。聖心は甚五郎との闘いに勝利しました。甚五郎は今まで自分がすべて支配していたと思っていたものが聖心によって崩壊させられたのです。

 それからというもの甚五郎は人が変わったように聖心の言うことを素直に聞くようになりました。力関係が親のときと違い逆転したのでした。聖心は甚五郎に厳しく接しました。金のありがたみ、空気のありがたみ、お客様のありがたみ、食べ物のありがたみ等など、この世の中のすべてのもののありがたみを、身をもって分からせようとしていたのです。しかし、聖心は「心から分かる」ということがいかに難しいかということも分かっていました。そのため妥協は許しませんでした。そんな厳しい生活が半年経過しました。甚五郎はこの半年間の聖心の指導により自分の考え方が間違っていたことが分かったのです。心の故障箇所を発見することができたのです。自分が間違った考え方をしていることに気付いたのでした。すべてうまくいかなかった原因が自分にあるということを悟ったのでした。聖心はそのことに気付いた甚五郎を見て、この生活の終わりが近いと感じていました。そして甚助とお菊にこう告げました「これでわしはここから去ります。甚五郎さんもよくがんばりました。やっと分かったみたいです。分かるということは大変なことなのですが克服したようです。しかし、人間は慢心というのもありますから日々自分を律しなければなりません。そこをよく見てやってください。そして大事なことは決して子供を王様にしてはなりません。親の威厳が大切なのです。力関係の主導権は親が握らなければなりません。わしは主導権を握る闘いで最初は殺されるかと思いました。しかし、何とか勝利することができました。そのために甚五郎は立ち直ることができたのです。本人も那須温泉でもう一度板前の修業を一からやり直したいと言っています。ぜひ実現させてください」と。そのことを聞いた2人は聖心の言ったとおりにしました。そして聖心はお礼に甚助から路銀をいただき次の上州の沼田へと旅だって行ったとさ。 おしまい

 注意・・・人を縛って木にぶら下げたり、木に縛ったりしないで下さい。この物語に出てくるこれら行為はあくまでも「物語」のなかのお話です。真似はしないで下さい。引きこもりは、はっきりとした理由や原因がよく分からないものが多くあります。引きこもりは百人百様の理由があります。それにともなって百人百様の対応があります。



ひきこもりむすこの``じんごろう``

しおばらおんせんのおんせんやどの「もみじや」の「そんだべぇーむすめのおりゅうさん」のもんだいを、かいけつしたしゅぎょうそうの、せいしんは、つぎのもくてきちの、にっこうへと、いそいでいました。にっこうでは、おおきなもんだいが、まちうけているのでした。せいしんは、はたしてどんなほうほうで、このもんだいを、かいけつするのでしょうか? なお、このものがたりはすべて、かくうのおはなしです。

さくしゃ  こだまはるのぶ

しおばらおんせんをしゅっぱつし、とちゅうで「そんだべぇーむすめのおりゅうさん」らとわかれた、しゅぎょうそうの、せいしんは、にっこうへとむかっていました。かいどうのとちゅうのむらむらでは、あいかわらずこどもたちが、せいしんにむかって「このこじきぼうず、あっちへいけ!! あっちへいけ!!・・・・」といっては、いしをなげつけて、ばかにしていました。そんなこどもたちに、せいしんは「ひとを、みためでばかにすると、てんばつがくだるぞ!!」と、どなっていました。それをきいたこどもたちは「うちのかあちゃんが、よのなかでいちばんだいじなのはおかねだ、といっていた。かねをもっているにんげんが、いちばんえらいんだ!! てんばつもくそもねぇ!!」といいかえしてきたのです。せいしんはそれをきいて「よのなかもおわりか!!」とこころのなかでおもいました。そしてすぐに、こどもたちに「このばかやろう!! おかねは、つきとおなじだぞ。みちたりかけたりするぞ。しかし、そうはいっても、かねもたいせつだが、まずにんげんは、つきよりたいようにならなければならないのだ。だいやもんどだましいをもたなければならないんだ。うちへかえったらかあちゃんにそういっておけ!! わかったか!! そしてなぁ、おまえたちがやっていることは、すべて、てんがきろくしているのだぞ。てんを、ばかにするんじゃねぇ!!」といいきかせていました。そんなことをいっているあいだに、あたりは、すこしくらくなってきました。せいしんは、にっこうのおんせんやど、へといそぎました。

にっこうについたせいしんは「さて、どこの、やどやにとまろうかなぁ?」とおもって、あたりをきょろきょろとみまわしていたら、とつぜんおおきなこえがしてきました。「おれが、こんなにんげになったのは、とうちゃんと、かあちゃんのせいだ!! ふたりとも、しんじまえー!!」というおおきなこえが、せいしんのみみにはいりました。せいしんは、ただごとではないとおもい、そのこえのするほうへといってみました。そこは「いろはや」という、おんせんやどでした。そしておそるおそる「こんばんわ、なにかあったのですか?」といって、そのやどのげんかんに、はいっていきました。すると、そのおんせんやどのしゅじんがでてきて「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました。おーい、おきくや、おきゃくさまだぞ。あしをあらってやっておくれ」といいました。すぐにそのしゅじんのにょうぼうの、おきくがきて、せいしんのあしを、あらいはじめました。せいしんは「まだ、ここにとまるかどうかきめていませんでしたが、きょうは、おせわになることに、いま、きめました。ところでさっきおおきなこえがしたのですが、なにかあったのですか?」とおきくにいいました。おきくは「おぼうさんだからおはなししますが、じつは、ひとりむすこのじんごろうがおりまして、そのむすこが、おおきなこえをだしたのです。いつもきんじょに、めいわくをかけています。どうしようもないひきこもりむすこにそだってしまいました。しょうじきいって、てをやいています」と、あしをあらいながらせいしんにかたりかけました。するとせいしんは「くわしいことは、わかりませんが、ふつうではなさそうですね。もしよろしかったら、ゆうはんをたべたあとに、くわしいことを、きかせてくれませんか。こんなこじきぼうずですが、もしかしたら、ちからになれるかもしれません」と、おきくにつげました。それをきいていたおきくは「そういっていただいても、はじめておあいしたかたに、そんなことはむりです。それにうちのことですから。でもいちおう、しゅじんにそうだんしてみます」といいました。それでせいしんは「わかりました」といって、じぶんのとまるへやへと、おきくにあんないされていきました。

おんせんにゆっくりはいって、ゆうはんも、たべおえてよこになってやすんでいると、そこのしゅじんと、おきくが、せいしんのへやへ、やってきたのでした。しゅじんが「おやすみのところまことにきょうしゅくです。わたしは、ここのしゅじんの、じんすけ、ともうします。これは、わたしのにょうぼうの、おきくともうします。おきくからそうだんをうけまして、あなたさまに、いろいろとそうだんしてみようということになりましたので、おたずねしました」と、せいしんにいってきたのです。それをきいたせいしんは「そうですか。こんなわしでもよければ、おちからになれるかもしれません。それにしても、じんすけどの、にっこうもいいところですね。いろはざか、からのけしきは、すばらしいというではないですか。けごんのたき、というじつにすばらしいたきもあるし、おんせんもいいし、にんじょうもあり、りょうりもうまい。おんなのひともきれいだ。いうことなしですねぇ。ところで、わしもさいしょびっくりしてしまったよ。いきなり、しんじまえー、だからな。まぁ、それでえんがあったわけなんだが。いったいどうしたというのですか?」と、じんすけにはなしました。じんすけは「そのまえに、おきゃくさんは、たびをしながら、しゅぎょうしているおぼうさんですか?」といってきたのです。それをきいたせいしんは「すまん、すまん。じこしょうかいがおくれました。そうです、わしは、ぜんこくをたびしながら、しゅぎょうしている、しゅぎょうそうの、せいしんともうします。よのなかもあれてしまいまして、なんでも、かね、かね、かねのよのなかになりましてねぇ。とちゅうで、あうこどもたちでさえ、かねのことをいっています。それにくわえて、やたらと、じさつしてしまうにんげんもふえましてねぇ。こんなよのなかを、このめでみてみたくなりまして、たびをしているものです。きているものは、きたないですが、かんべんしてください。かねがないもので、あたらしいものをかうことができないのです。まぁ、こんなものですが、えんがあったとおもって、なんでもはなしてください」といいました。それをきいていたじんすけは「そうだったのですか。わかりました。それではくわしいことを、にょうぼうのおきくのほうからはなしてもらいます。おきく、せいしんさんにむすこのじんごろうのことを、くわしくおはなししておくれ」と、おきくにいいました。それをきいていたおきくは「はい。わかりました。じつは、わたしのいえは5にんのおとこのこどもがいたのですが、4にんが、ちいさいときにしんでしまったのです。むすこのじんごろうは、すえっこです。そのためにだいじに、だいじにそだてました。そしてあととりは、じんごろうなので18さいのときに、なすの、なすおんせんのおおきなおんせんやどに、いたまえとしてしゅぎょうにだしたのです。ところが、はんとしもしないうちに、なにがあったのか、わかりませんが、とつぜんうちにかえってきたのです。なんとか、いちにんまえになってもらいたいとおもっていたものですから、びっくりしてしまいました。くわしいことは、なにひとつはなさないのです。それいらい、うちにひきこもって、ただじぶんのへやにいます。ときどきおきてきては「こんなおれになったのは、とうちゃんと、かあちゃんのせいだ。ふたりともしんじまえー!!」と、どなるのです。しゅじんと、わたしをせめるのです。そして、ときどきあばれます。へやのなかは、しっちゃかめっちゃかです。ときどきわたしがそうじをしています。ひとりでできないのです。おおきなこえをだすものですから、せけんさまにもうしわけなくて。ほんとうにこまっています。なにかいいちえは、ございませんでしょうか?」とせいしんにはなしました。それをきいていたせいしんは「そうですか。それはごしんぱいですね。さいきん、じんごろうさんのようなわかものがおおいのです。わかものだけでなく、30だいから50だいにかけても、そんなひとがふえています。ぜんこくをたびしているので、そんなじょうほうもはいっています。こまったもんだいです。ところで、いままで、じんごろうさんは、なにかもんだいをおこしましたか?」とじんすけにはなしかけました。それをきいていたじんすけは「いたまえにしゅぎょうにいくまえに、やたらとおみせから、なにかをかってきては、おみせにかねをはらわないことがありました。そのたびにわたしがみせにあやまりにいっておかねをはらっていました。そんなことがありました」それをきいていたせいしんは「うーん。そんなことがあったのですか。ところでこどものときに、なにかもんだいをおこしませんでしたか?」と、またもやじんすけにききました。するとじんすけは「てらこやに、よみかきをならわせているとき、よくわすれものをしたので、うちのおきくが、すこしはなれている、てらこやまで、そのわすれものをとどけにいっていました」といいました。せいしんはすぐに「うーん。そうですか。そんなことをしていたのですか」と、ひとこといったきりだまってしまいました。しばらくちんもくがつづきました。そしてとつぜんせいしんが「ふたりにかくにんしたいのですが、こどものころふたりでじんごろうさんをかわいがりましたね」といったのです。それをきいていたじんすけは「はい。4にんもしんだものですから、それは、それはかわいがりました。なんでものぞむものはあたえました」とせいしんにこたえました。それをきいていたせいしんは「まぁ、このひきこもりというのは、なかなかむずかしいもんだいなのです。たんじゅんにかんがえられないもんだいなのです。しかし、いま、おはなしをきいて、じんごろうさんのばあいは、どうもおやのそだてかたにもんだいがあったようにおもえてならないのです。じんごろうさんの、じりつしんと、せきにんかんを、ことごとくつぶしてきたのではないかと。こどもがかわいいのはわかります。かわいがらないとだめなこともわかります。しょくぶつは、こやしをやりすぎるとだめになってしまいます。にんげんも、しょくぶつとおなじで、あいじょうというこやしをやりすぎるとそだたないのです。じりつしんや、せきにんかんがそだたないということです。それが、うちゅうのほうそくというものなのです。すこしきびしいかんきょうのほうが、しょくぶつは、じぶんのちからでえいようをきゅうしゅうしようと、がんばるのです。そのけっか、しっかりとした``ね``になり、じょうぶなしょくぶつにそだつのです。にんげんのこころも、そういうものなのです。ゆきのおおい、きたぐにのきは、ざいしつがしっかりしています。それはきびしいふうせつにたえたけっか、そうなるのです。ぎゃくに、みなみのきはそのぎゃくです」といいました。それをきいていたおきくは「それでは、どうすればじんごろうは、いちにんまえになることができるのでしょうか?」とせいしんにしつもんしてきました。せいしんは、しばらくかんがえて「うーん。きょうはここまでにして、ひとばんかんがえさせてください。あす、どうするかおはなしします」と、ふたりにつげました。それをきいていたじんすけは「わかりました。よろしくおねがいします」と、せいしんにいいました。そしてふたりは、せいしんのへやからでていきました。

 じぶんたちのへやにもどったおきくは、じんすけに「なんだか、あのおぼうさんだいじょうぶかしら。すがたかたちをみたら、そんなぎもんがわいてきたわ。あんな、どこのうまのほねかわからない、おぼうさんに、たいせつなひとりむすこのことをまかせて、ほんとうにだいじょうぶなのか、しんぱいになってきました」といいました。それをきいたじんすけは「ことばにきをつけなさい。ひとはみためではありません。はなしをきいていたのですが、まっとうなおはなしだとおもいました。まちがってはいないようにおもいます。ほんとうは、わたしたちがまちがっていたのかもしれません。ここはせいしんさんにおまかせするしかみちがないようだ。せいしんさんをしんじるのです」と、おきくにいいきかせました。それをきいていたおきくは「そうですね。あとはほうほうがうかびませんものね」といいました。そしてふたりは、あしたの、あさごはんのじゅんびをして、ふろにはいり、ねました。

 せいしんはひとりなやんでいました。しおばらおんせんのおりゅうさんはうまくいったが、はたして、このいえの、せがれのひきこもりもんだいは、うまくかいけつするかどうか、じしんがなかったのです。ひきこもりは、ふくざつなもんだいが、からんでいるばあいが、おおいのでたんじゅんなかんがえでは、なかなかかいけつしないもんだいだとわかっていたので、せいしんのなやみは、ふかまるばかりでした。そのためなかなかねつくことができませんでした。しかし、ひとつのかんがえがよぎりました。あるひとつのかんがえにかけてみようとおもったのです。そして、ねざけようのにほんしゅをすこしのみ、あんしんしたのか、しぜんとねこんでしまいました。

 よがあけました。あさごはんもおえて、じぶんのへやでやすんでいると、じんすけと、おきくがやってきました。そしてじんすけが「せいしんさん、なにかいいちえは、うかびましたか?」といってきたのです。それをきいたせいしんは「まぁ、おふたりともすわりなさい。まずは、おちゃでものみましょう」といって、せいしんみずからふたりにおちゃをだしました。ふたりはきょうしゅくそうに、そのおちゃをのみました。しばらくするとせいしんは「このもんだいは、なかなかむずかしいもんだいです。おふたりにかくごをきめてもらわないと、なかなかとりかかれません」といったのです。それをきいたおきくは、びっくりしたようすで、せいしんにといただしました「かくごとはどういうかくごですか?」と。それをきいたせいしんは「いきるか、しぬかのかくごです」と、きっぱりといったのです。そのことばをきいたふたりはびっくりしてしまいました。そしてかおをみあわせて、しばらくそのままでいました。そしてじんすけが「そんなおおげさなもんだいなのですか?」といってきました。するとせいしんは「そうです。じんごろうさんのいっしょうのもんだいです。そしてこの``いろはや``のしょうらいのもんだいです。あなたがたは、きのうきいたかぎりでは、三つのまちがいをおかしています。ひとつはおかねのもんだいです。じんごろうさんが、おみせにしはらわなかっただいきんを、かわりにしはらったこと。それとわすれものしたとき、おきくさんが、もっていったこと。それとじんごろうさんのへやのそうじです。この三つです。まず、おかねをしはらわないと、よのなかではどうなるのかということを、みをもって、しらしめるひつようがあったのです。しはらわなかったおみせから、ぶぎょうしょに、うったえてもらい、じんごろうさんをつかまえるべきだったのです。あなたはそれではかわいそうだ、とおもわれるかもしれません。しかし、そのかわいそうだ、かわいそうだ、というのがじんごろうさんを、ますますずにのらせ、おやをなめるにんげんにしていったのです。それでだめになったのです。おかねをしはらわなければ、よのなかというのはこういうことになるのだぞ、という、ぜっこうのきょういくの、きかいをつぶしたのです。それとわすれものですが、これもじぶんでわすれたのだから、じんごろうじしんに、とりにこさせればよかったのです。これもじぶんのせきにんというじかくをそだてるきかいをつぶしてしまったのです。つぎにへやのそうじです。そんなものは、ほんにんにやらせればいいのです。どんなによごれても、けっして、おやが、てをだしてはいけません。じぶんのへやは、じぶんでそうじをさせるのです。かりにうじむしがわいても、てをだしてはいけません。そのなかでせいかつさせるのです。そうじをしなければどうなるのか、ということをたいけんさせるのです。このきぜんとしたおやのたいどが、たいせつです。さいごは、おやがなんとかしてくれるだろう、というあまえがあるのです。これではせきにんかんも、じりつしんもそだちません。きびしいいいかたかもしれませんが、こういうこまかいところがだいじなのです。かなめです。ただかわいそうではだめなのですよ」とふたりにいいました。それをきいていたふたりは、かたをがっくりとおとしてしまいました。そしてじんすけが「せいしんさん、さっきのかくごですが、もうすこしくわしくおねがいします」といいました。するとせいしんは「じんごろうさんのいのちを、わしにあずけるかくごということです。きのうきょうと、たったのふつかのつきあいですが、こんなこじきぼうずに、たいせつなひとりむすこのいのちを、あずけることができるかどうかということです。すベて、わしにまかせてもらえるかどうかということです。かりにじんごろうさんが、とちゅうでしんでも、ぶぎょうしょに、うったえないということです。いっぴつかいてもらうということです。それでいきるか、しぬかといったのです」と、きっぱりとじんすけにいいました。それをきいたおきくは「なんだかこわくなってきました。せいしんさん、そんなあらっぽいほうほうでほんとうにだいじょうぶなのですか?」と、しつもんしてきました。するとせいしんは「いや、ときにはあらっぽいことをやるかもしれませんが、きほんはそうではありません。じんごろうさんはなにもわかっていないのです。おやのありがたみや、たべもののありがたみ、くうきのありがたみ、よのなかのありがたみ、いまいきていることのありがたみ、かねのありがたみ、このいえにうまれたありがたみ、などなど、かぞえあげればきりがありません。とにかくなにもわかっていないことが、じんごろうさんのこころをだめにしているげんいんだ、とわしはおもうのです。もしかしたら、わしのけんとうちがいかもしれません。しかし、わしのけいけんからするとどうもそんなきがしてならないのです。にんげんは、ありがたみがわかったとき、ひとつのさとりをえるのです。むかしわしのどうりょうで、だんかから、すこしのやさいをもらってきては、すてていたふとどきものがいたのです。このものは、すこしのやさいのありがたみと、だんかのまごころというものが、まったくわかっていなかったのです。おそらくこばんだったらすてなかったでしょう。しかし、そのこばんでも、すくなければ、ふまんをいったでしょう。すくないやさいでも、ひとからもらったら、こころのそこからかんしゃできるにんげんにならなくてはいけません。そのひとの、めにはみえない、まごころというかちがついているやさいのありがたみを、こころからわからなければなりません。ありがたみや、まごころというのは、めにはみえないのです。このめにはみえないもののかちがわからないと、にんげんはだめになるのです。そのやさいをすてた、ふとどきものは、さいごには、だめなにんげんになってしまいました。いまは、しまながしのけいにしょせられて、はちじょうじまにいます。いっしょうそこからかえってくることはできません。にんげんは、ありがたみをわすれると、こころがだめになるのです。わしはにんげんをまずみるときは、そこのところをよくみます。そこがかなめだとおもっているからです。ですから、きほんはそういうところにおきます。しかし、ときには、にくたいもいじめなければなりません。ひゃくしょうのせがれで、ひきこもっているものはいません。かれらは、くわをつかって、あさからばんまでたんぼをたがやしています。ぜんしんのちからをつかい、はたらいているのです。そしてよるは、さけをのんでぐっすりとねるのです。ですから、にくたいろうどうは、にんげんのこころにはいいのです。らくをすると、にんげんのこころは、なんじゃくになるとおもっています」といいました。するとじんすけは「なるほど。すこしはわからないところもありますが、なかなかよいかんがえではないでしょうか。かくごがいるということがよくわかりました。それで、ぐたいてきには、わたしたちはどうすればいいのでしょうか?」と、しつもんしてきました。せいしんはすぐに「ぐたいてきには、このやどやに、わしとじんごろうさんのふたりですむということです。おふたりは、このいえからでていき、どこかで、しゃくやをみつけて、このやどやの、じゅうぎょういんになってもらいます。しゅじんは、じんごろうさんです。すべてじんごろうさんにまかすのです。なにがあっても、けっしてくちをだしてはいけません。ここがかんじんです」とこたえました。それをきいていたおきくは「わたしたちがここからでていくなんて、なにかへんです。じんごろうがでていけばいいのです。そしてここへかよってもらうのです。それではだめなのですか?」とせいしんにきいてきました。するとせいしんは「それではだめなのです。やどやのけいえいが、いかにたいへんなものかを、みをもってわかってもらうためには、しゅじんになってもらわないとわからないのです。そしておふたりが、いままで、いかにくろうしていたのか、ということを、こころのそこからわかってもらうひつようがあるのです。わざとくろうさせるのです。くろうしないと、にんげんのたましいは、みがかれません。らくなほうをえらぶと、たましいはさびるいっぽうなのです。ここもかなめです」と、きっぱりといいました。そして「ここは、おにになってもらわないといけません。あなたがたは、なにかかんちがいをしていたのです。やさしい``あい``だけが、``あい``だとおもっていたのです。``あい``には、きびしい``あい``もひつようなのです。つきはなす``あい``もひつようだということです。このことをこころにとめておかないと、にんげんが、だめになるのです。なんでもかんでもいたれりつくせりではだめなのです」と、すこしおおきなこえでつよくいいました。それをきいていたじんすけは「おきく、ここはひとつせいしんさんをしんじてまかせてみようじゃないか。どうもわたしたちは、せいしんさんのいうとおり、なにかかんちがいをしていたようにおもえてきたよ。たいへんなことだけど、はらをくくろう」といいました。しかし、おきくは、なかなか、がてんがいかないかおをしていました。そしておきくが「せいしんさん、きょういちにちかんがえさせてください。あたまのなかが、せいりできません。しゅじんとふたりでそうだんしてみます」とせいしんにいったのです。それをきいたせいしんは「わかりました。きょういちにちかんがえてください。むりにとはいいません。このやりかたは、おふたりのしょうにんと、きょうりょくがひつようです。よくはなしあってきめてください」と、おきくにいいました。そんなことで、いちおうはなしは、おわったのでした。けつろんは、あすにもちこされました。

(ここでちょっとひとやすみ おちゃのじかん) しょうひんこんせぷと

へやにもどったふたりは、すこしつかれたのでよこになりました。そしておきくが「たいへんなおぼうさんに、えんがありましたねぇ。こっちがいえをでていくなんて、どうもりかいできません」と、じんすけにいいました。するとじんすけは「いや、ひとつのかんがえかたかもしれんぞ。いままで、なんのくろうもしてこなかったじんごろうには、ちょうどいいきかいかもしれない。せいしんさんのいっていることは、まんざらまちがってはいないとおもえるのだ。おきくよ、ここはせいしんさんのいうとおりにやってみないかい?」といいました。するとおきくは「そうですねぇ。ここはてんがあたえたしれんとおもって、せいしんさんにおまかせしてみるのもひとつのほうほうかもしれませんねぇ」といいました。するとじんすけは「よし、きまった。じんごろうには、こんばんつたえよう」といって、ふたりは、すこしつかれたので、そのままひるねをしてしまいました。

そんなことがしんこうしているということもしらずに、じんごろうは、へやのなかで、もんもんとしていました。そしてときどきへんなことをいっていました。おれがこうなったのは、おやがわるいのだ、せけんがわるいのだ、うまれてきたのがまちがいだったんだ、なすおんせんの、りょうりのおやかたのやろう、えらそうにいばりやがって、ちくしょう!! などなどと、じぶんのこころなど、ひとつもかえりみず、つねにひとのことをこのようにわるくおもっていました。そうなのです、じんごろうは、すべておれがこうなったのは、おれがわるいのではなく、じぶんいがいのものがわるいのだ、とかんがえていたのです。そのかんがえからぬけだすことができなかったのです。

よるになりました。じんごろうが、じんすけと、おきくによばれました。じんすけが「じんごろう、じつはなぁ、あしたからわれわれふたりは、このいえからでていくことになった。ごはんもすべてじぶんひとりでりょうりしてたべるんだぞ。おまえに、このやどやをまかすことになったのだ。おかねもぜんぶまかす。ただし、いま、おとまりになっているせいしんさんが、おまえのめんどうをみることになっている。すべてせいしんさんのいうことをきくのだぞ。わかったか?」といったのです。おどろいたじんごろうは「えー!! ひとりでぜんぶやるのか?」とじんすけにいいました。するとじんすけは「かあちゃんと、とうちゃんは、このやどやのじゅうぎょういんとしてまいにちかよう。ただし、なにがおきてもくちはぜったいにださないことになっている。おまえがすべて、このやどやをしきるのだ」といいました。するとおきくがすぐに「とうちゃんと、かあちゃんは、おまえをなんとかいちにんまえにしてやりたいのだよ。もしそれがいやなら、``いえで``してもいいよ」といったのです。しかし、じんごろうにはそんなこんじょうはありませんでした。よくわからないまま、じんごろうは、しぶしぶりょうかいさせられました。そして、こんなことになったのは、せいしんという、どこのうまのほねかわからない、こじきぼうずのせいだとかんがえたのでした。そしてこころのなかで「あのくそぼうずめ、いまにみていろ。ただではおかないからな」とかんがえたのでした。すべてひとのせいにしていたじんごろうですから、そういうおもいにいたるのはとうぜんでした。

そして、よがあけ、すべてをまかすことを、せいしんにつげたじんすけと、おきくは、いえをでて、やどやから、すこしとおいしゃくやをかりました。ほんとうにでていったのでした。せいしんと、じんごろうのたたかいが、いよいよきっておとされたのです。じんごろうは、せいしんをうらんでいますので、せいしんをみるなり「このくそぼうず、よくもこんなことをしてくれたなぁ!! おれはぜったいにおまえのいうことなどきかないからな!!」といったのです。そのことばをきいたせいしんは、いきなりなわをもってきました。そしてじんごろうになにもいわずに、あっというまに、じんごろうのからだになわをまきつけてしばりはじめました。ふいをつかれたじんごろうは「な、な、な、なにをするのだ、このくそぼうずめ!! このくそぼうずめ!!・・・・」となんどもなんどもいいましたが、せいしんは、ひとこともくちをききませんでした。そしてそのうちに、やどやの、うらてにある、イチョウのきのえだに、なわをなげて、じんごろうをうえにつってしまいました。これではさすがのじんごろうも、ても、あしも、でませんでした。「ちくしょう!! なにをしやがる、いまにみていろ、このくそぼうずめ!!・・・・・」とさけぶばかりです。それをきいていたせいしんは、はじめてくちをひらきました。「いままでおまえはうまくいかないと、すべてひとのせいにしていきてきただろう!! そんなおまえの、くさったこんじょうを、たたきなおしてやる。いいかかくごしろ。おまえがしぬか、わしがしぬかのたたかいだ!!」といきなりいったのです。それをきいたじんごろうはびっくりしてしまいました。そしてこわくなりました。あんなにいせいのいいことをいっていたのが、ぴたりと、とまりました。せいしんは「にんげんは、じぶんのかおがみえないのとおなじく、じぶんのこころはみえない。みようともしない。しかし、ひとのこととなるとよくみえるものだから、じぶんがうまくいかなくなると、すべてひとのせいにしたくなるのだ。そのほうがらくだからな。おまえはいままでじぶんをかえりみることをしてこなかっただろう。ひとばんあたまをひやして、いままでのことを、ふりかえってみつめなおせ!! わかったか!!」と、じんごろうにつよくいったのです。それをきいたじんごろうは「くそー、くそー・・・おまえは、なんのけんりがあって、おれをこんなめにあわせるんだ!! くそー、くそー・・・・」というばかりでした。いままでそんなことをいうひとと、ここまでやるひとはいなかったのです。いやがおうでも、じんごろうは、いままでのことを、かんがえざるをえなくなったのです。そのばん、じんごろうは、ひとばんじゅうないていました。かあちゃんと、とうちゃんはいるのに、いっこうにたすけてくれません。みてみぬふりです。じんごろうは、なみだもかれてしまいました。そして、そうとうのたいりょくをしょうもうしてしまいました。

そんなよるもすぎて、あさになりました。じんごろうは、すっかり、きりょくがなくなっていました。それをみたせいしんは「だいぶまいったようだな。これではわしにかかってくるげんきもなさそうだ」といって、えだにぶらさがっているじんごろうを、おろして、なわをほどいてやりました。あんのじょう、じんごろうは、たてずに、よこにねてしまいました。せいしんは「たいりょくがあるのに、まいにち、まいにち、いえにいては、おかしくなるのもとうぜんだ」とおもったのでした。じんごろうは、こんどは、はらがへってきました。せいしんに「はらがへってきたので、なんかたべさせろ!!」というではありませんか。せいしんはすかさず「いままでだまっていてもごはんがでてきただろう。じぶんでつくってたべたことなどないだろう。おまえがたべているものは、ぜんぶおみせからかってこなければならないのだぞ。かうにはおかねがいる。おかねをかせぐには、はたらかなければならない。それなのにおまえは、はたらいていない。おやのかねでかってきたしょくりょうで、おやからりょうりしてもらい、ただそのりょうりをたべるだけだ。そしておまえは、おやがたてたいえで、やちんもはらわないでへいきでくらしている。しぜんかいのどうぶつをみてみろ。みんなくうためにひっしだ。しぜんかいはくうかくわれるかのせかいだ。にんげんも、きれいごとをいっているが、にたようなものだ。しかし、しぜんかいとちがうところがひとつある。それは、ぶっしょうのたましいであるだいやもんどだましいをもっているということだ。せいぞんきょうそうはきびしいが、このたましいのおかげで、ほんとうのいきるいみをみうしなうということはない。しかし、このたましいをみうしなったとき、いくさ(せんそう)がおきるのだ。おまえも、ほんらいこのだいやもんどだましいは、こころのおくそこにもっている。しかし、いろんなことがげんいんでなかなかおもてにでてこないだけなのだ。おまえはいまこのだいじなだいやもんどだましいを、こころのちゅうしんにすえていきていくことがだいじなのに。にんげんも、しぜんかいのどうぶつとおなじく、まいにちが、たたかいなのだぞ。なにとたたかっているのかというと、まずは、じぶんとのたたかいだ。にんげんのさいだいのてきは、まずはじぶんなのだ。てきはたにんではないぞ。うちなるこころのてきが、おまえのこころのなかにすみついているのだ。そいつをまず、だいやもんどだましいで、そうじしなければならない。せんにゅうかんねんや、ざつねん、もうそうも、いっしょにそうじされる。そのたたかいに、まずかつことだ。つぎにきょうそうというたたかいだ。このたたかいが、げんどうりょくとなって、にんげんは、しんぽしているのだ。ここからにげてしまうと、こころはどんどんいいわけというじつにここちいい、りくつをつくりはじめるのだ。おまえはここがわかっていない。このきびしさと、こころのげんりが、わかっていない。にんげんが、いきていけるのは、さかなやどうぶつたちを、ちえをつかってつかまえてきて、たべているからだ。にんげんが、いちまいも、にまいもうえってことだ。くうかくわれるかのくうほうがにんげんだ。そんないちまいも、にまいもうえのにんげんのおまえが、じんせいが、うまくいかないのは、おれがわるいんじゃない、ひとがわるいんだ、おやがわるいんだ、よのなかがわるいんだ、とぜんぶせきにんを、おしつけている。これはおまえのこころがこしょうしているからだぞ。こしょうしているからうまくいかないのだ。いいか、きかいでもどこかこしょうしていればうまくいかないものだ。もし、きかいがこしょうしたらどうする? どこがこしょうしているのか、きかいのなかをみてみるだろう。そしてこしょうしているところをはっけんして、そこをしゅうりしてうごかすだろう。おまえはこころがこしょうしているにもかかわらず、そのこしょうしているところをはっけんしようともしない。これでは、おまえのじんせいがうまくいくはずがない。こころというのは、ほとんどかんがえかたということだ。かんがえかたというのは、ひとがなおせるものではない。じぶんでくろうしながらなおすしかないのだ。おまえをだめにしているのは、そのこしょうしているところを、はっけんしようともしない、おまえじしんのこころなのだ。それがおまえをだめにしている、はんにんだ。そしてな、おまえは、たべもののありがたみ、りょうりをつくってくれるおやのありがたみ、しょくりょうをかうことができるおかねのありがたみが、まったくわかっていない。だいやもんどだましいは、わしが、おいおいと、おしえてやる。しばらくなにもたべずにここにいろ。いま、にげられないようにこのきにしばるぞ」といって、こんどはじんごろうをしゃがんだままそのきにしばりつけました。これではいくらはらがへっても、なにもたべられません。せいしんは、そのままじんごろうを、きにしばりつけたままいってしまいました。

 じんごろうは、きにしばりつけられたじょうたいで、みっかかん、そとにほうちされました。そんなじんごろうは、はらがへって、はらがへって、どうにもなりません。いままでこんなけいけいなどしたことがありませんでした。とうとうないてしまいました。しかし、どんなにないても、わめいても、たべものはでてきませんでした。そしてしばらくすると、せいしんがやってきました。そしてじんごろうに「どうだ、たべもののありがたみをかんじるか? おやのありがたみをかんじるか? かねのありがたみをかんじるか? おまえは、いままでたべものにかんしゃしたことは、いっぺんもないだろう。おやをあごでつかってきただろう。かねはてんからふってくるものとおもっていただろう。おやもおまえをおうさまにしたのがまちがいだったのだがな」といったのでした。そういってせいしんは、みずをすこしじんごろうにやりました。じんごろうは、こんなにもみずがおいしいとはおもいませんでした。おもわず「うめー、うめー・・・・」とさけんでしまいました。それをみたせいしんは「みずがどんなにだいじなものかわかっただろう。あまりにもみずがふつうにあるものだからみずのありがたさもわからなくなっていたのだぞ」と、じんごろうにいいました。じんごろうは「うん、うん、・・・」となんどもくびをたてにふり、せいしんのいうことにあいづちをうっていました。そんなじんごろうをみたせいしんは「このにんげんは、たすかるかもしれないな」とおもったのでした。そして、そのばを、はなれました。しばらくしてこんどはおかゆをすこしもってきてやりました。せいしんはじんごろうのくちにおかゆをたべさせました。じんごろうはあまりのうまさになみだをながしました。せいしんはこころのなかで「きいたようだなぁ」とおもいました。そしてじんごろうにむかって「このこめはなぁ、おひゅくしょうさんがなぁ、ひろいたんぼを、くわで、じぶんのちからでたがやしてつくったこめなんだぞ。いちにちじゅうたんぼをたがやしてみろ。くたくたになるのだぞ。それだけではこめはできない。まだまだじゅうろうどうしなければならないのだ。そんな、おひゃくしょうさんのことをかんがえて、このおかゆをすするのだぞ。そうすればもっとこのおかゆのありがたみがわかるぞ」といいました。それをきいていたじんごろうは「うん、うん・・・・」とくびをたてにまたふりました。せいしんはこころのなかで「このにんげんは、いがいとすなおなところがあるぞ」とおもいました。そしてイチョウのきから、かいほうしてもいいようなきもちになっていきました。しかし、そのことがあとでとんでもないことになろうとは、せいしんはゆめにもおもっていませんでした。

 おかゆをたべさせて、しばらくしてせいしんは、じんごろうに「どうだ、おかゆのありがたみがわかったか?」としつもんしたのです。するとじんごろうは、ちいさいこえで「はい、わかりました」といったのです。それをきいたせいしんは「いまおまえを、そのきからかいほうしてやるぞ」といったのです。そして、きにしばられているじんごろうのなわをほどいてやったのでした。すると、じんごろうは、すかさずはしってにげました。おどろいたせいしんは「こらーまて!!」といって、おいかけていきました。じんごろうは、だいどころにあったさしみぼうちょうをとりにいったのでした。そしてそのほうちょうをもってくるなりせいしんに「このやろう!! よくもこんないたいめにあわせてくれたな!!」といって、せいしんめがけてとっしんしてきたのです。せいしんは、けんじゅつのこころえがあったので、かんいっぱつで、そのほうちょうからみをまもることができました。そしてじんごろうにむかって「ころせるならころしてみろ!!」といってじんごろうにせまりました。せいしんはほんとうにたたかうべきときがきたな、とかんじていました。これはさけてとおれないな、ともかんがえていました。おたがいの、かんがえと、かんがえのたたかいがはじまったのでした。じんごろうは、せいしんのはくりょくにあっとうされていました。いざ、ほうちょうをもってあいてをころそうとおもっても、てがふるえてしまって、どうしてもつぎのこうどうがとれませんでした。せいしんは、そんなじんごろうのすきをみて、ほうちょうをもっているてを、おさえて、ほうちょうをとりかえすことにせいこうしたのです。じんごろうは、こしくだけになり、よろよろとくずれてしまいました。そしてがっくりとかたを、おとしたのです。まさに、いきるか、しぬかの、たたかいのしゅんかんでした。せいしんは、じんごろうとのたたかいにしょうりしました。じんごろうは、いままで、じぶんがすべてを、しはいしていたとおもっていたものが、せいしんによって、ほうかいさせられたのです。

 それからというもの、じんごろうはひとがかわったようにせいしんのいうことをすなおにきくようになりました。ちからかんけいがおやのときとちがいぎゃくてんしたのでした。せいしんはじんごろうにきびしくせっしました。かねのありがたみ、くうきのありがたみ、おきゃくさまのありがたみ、たべもののありがたみ、などなど、このよのなかのすべてのもののありがたみを、みをもってわからせようとしていたのでした。しかし、せいしんは「こころからわかる」ということがいかにむずかしいかということもわかっていました。そのため、だきょうはゆるしませんでした。

 そんなきびしいせいかつが、はんとしけいかしました。じんごろうは、このはんとしかんの、せいしんのしどうにより、じぶんのかんがえかたが、まちがっていたことがわかったのです。こころのこしょうかしょを、はっけんすることができたのです。じぶんがまちがったかんがえかたをしていることにきづいたのでした。すべてうまくいかなかったげんいんが、じぶんにあるということをさとったのでした。せいしんは、そのことにきづいたじんごろうをみて、このせいかつが、おわりにちかいとかんじていました。そして、じんすけと、おきくにこうつげました「これでわしはここからさります。じんごろうさんもよくがんばりました。やっとわかったみたいです。わかるということはたいへんなことなのですが、こくふくしたようです。しかし、にんげんは、まんしんというのもありますから、ひび、じぶんをりっしなければなりません。そこをよくみてやってください。そしてだいじなことは、けっしてこどもを、おうさまにしてはなりません。おやのいげんが、たいせつなのです。ちからかんけいのしゅどうけんは、おやがにぎらなければなりません。わしは、しゅどうけんをにぎるたたかいで、さいしょはころされるかとおもいました。しかし、なんとか、しょうりすることができました。そのためにじんごろうさんは、たちなおることができたのです。ほんにんも、なすおんせんで、もういちどいたまえのしゅぎょうをいちからやりなおしたいといっています。ぜひじつげんさせてください」と。そのことをきいたふたりは、せいしんのいったとおりにしました。そしてせいしんは、おれいにじんすけから、おかねをすこしいただき、つぎの、じょうしゅうのぬまたへと、たびだっていったとさ。   おしまい

 注意・・・人を縛って木にぶら下げたり、木に縛ったりしないで下さい。この物語に出てくるこれら行為はあくまでも「物語」のなかのお話です。真似はしないで下さい。引きこもりは、はっきりとした理由や原因がよく分からないものが多くあります。引きこもりは百人百様の理由があります。それにともなって百人百様の対応があります。

まごころ地蔵

あなたの人生への応援詩  解説
 
地球を捨てて、太陽になれ!!

 昔々、越後の国(今の新潟県)のある村のはずれに、もう何百年も掃除をしてもらっていないお地蔵様がありました。ごみやほこり、落ち葉などをかぶってこけなども生えて汚くなっていました。昔は村の人達がよく掃除をしてきれいにしていましたが、あるときから村の人達の心が変わり誰も掃除をしなくなったのです。そんなある秋に一人のおばあさんがこの村に引っ越してきました。それもこのお地蔵様の向かいの空き家に引っ越してきたのです。このおばあさんは若いときから信仰心の厚い人でした。毎朝おきてはお天道様に手を合わせ「きょう一日何事もなく、平安に暮らせますようにのう。きょうまたこのように生かされたっけのう、ありがてぇてね。」といつも心からのお祈りをささげていました。

そんなおばあさんが引越しの整理のついた翌日に、近所に引越しの挨拶をしようと思って歩くと、すぐに、ごみやほこりをかぶって、こけが生えているお地蔵様を見つけました。すかさず「おうおう、なんとかわいそうなお地蔵さんだのう。」と言って、挨拶のことなどすっかり忘れて、家に掃除の道具を取りに行きました。そして一生懸命にお地蔵様の掃除を始めたのです。もう何百年も掃除をしていなかったものですから、それは大変でした。あばあさんは引越しの疲れも忘れ、お地蔵様を本当にきれいにしてしまいました。おばあさんは「あーあ疲れたのう。でもお地蔵様がこんなにきれいになったのでよかったのう、よかったのう。そうだ、毎日掃除をしてきれいにしてお地蔵様に喜んでもらおう。」と言って、一服をしに家に帰りました。その後挨拶周りを終えたのでした。

それからというもの毎日、毎日、お天道様に手を合わせ、お地蔵様の掃除をし、お地蔵様にも手を合わせる生活を送っていました。そんなある日に、なんとおばあさんはお地蔵様がかわいそうだと思ってお地蔵様専用の小さな小屋を建ててやりました。おばあさんは「これで雨や雪、風にも大丈夫。よかったのう。よかったのう。」と自分のことのように喜んでいました。

おばあさんが引越しをしてから三年ぐらいたった夏の朝に、いつものようにおばあさんはお地蔵様の掃除をして手を合わせて家に帰ろうとしたそのとき、「おトラ、おトラよ、私はここの地蔵だ。毎日ありがとう。」という声がしたのです。おばあさんはびっくりして腰をぬかしてしまいました。一瞬何が起きたのか分からなくなったのです。そしておばあさんは「確かに今、私の名前を呼んだよなぁ? 」とひとり言を言いながらあたりを見まわしました。しかし、人影はありませんでした。おばあさんは「ま、ま、ま、まさかお地蔵様がしゃべったのらろっかのー?! 」とまたひとりごとを言いました。するとお地蔵様が「そうだ。私がお前の名前を呼んでお礼を言ったのだ。」と言いました。おばあさんは夢か幻を見ているのではないかと思ってついホッペをつねってみると「痛い!!」とすぐに感じました。おばあさんは、これは夢でも幻でもない、と直感すると我に帰り「お地蔵様、何で私の名前がわかったろうのう。」と尋ねました。そうするとお地蔵様は「私はすべて知っている。このかた、何百年と人間を見てきた。知らないのはないのだ。」とおっしゃいました。そして「おトラ、お前もだいぶ年をとってきた。残り少ないこの世でお前の望むものなら何でもかなえてやろう。」とおっしゃったのです。これにもおばあさんはびっくりしました。おばあさんは少し考えて「お地蔵様、私はあとせいぜい五年ぐらいしか生きらんねてね。この残りの五年の間に病気しゃんで、健康に生きらっれば、こんないいことはねてね。望みといったらこんなもんですっけ。」と言いました。そうするとお地蔵様は「欲のないおトラだ。分かった。あと残りの人生の健康をお前にあげよう。」とおっしゃったのです。するとおばあさんは「ほんね、ありがとうございます。」と言って手を合わせました。

そしてその翌日、いつもの日課をこなし家に帰ろうとしたそのとき「おトラ、お前には死ぬまでの健康を授けた。そして死ぬまでの暮らしに困らない程度の金と米を私の気持ちとして差し上げよう。」とおっしゃったのです。するとおばあさんは「あーあー。もったいねてね。ほんね、ありがとうございます。」と言って家に帰りました。すると家の中の玄関にお地蔵様がおっしゃったとおりのお金とお米がきちんと置いてありました。おばあさんは「お地蔵様、ほんね、ありがたかったれ。」と感謝の言葉をささげました。

きのうときょうのお地蔵様とおばあさんのやり取りを見ていた、隣の欲張りで金持ちの小ずるい大家のおじいさんは「ははあ。あんなことをお地蔵様にしてくっれば、何でも望むものをくれるんだな。俺もさっそく真似して、あしたの夕方からやってみろっと。」と言いました。

 その翌日の夕方、大家のおじいさんは掃除の道具を持ってお地蔵様の前にきました。お地蔵様はおトラばあさんが毎日掃除をしているのでとてもきれいでした。大家のおじいさんはお地蔵様がきれいなので掃除をするふりをして簡単に掃除をしました。大家のおじいさんは「まあ、こんげことを何日かしてやってやればお地蔵様もきっと俺に声をかけてくれるに違いねすけ。」と考えていました。しかし、いくらそんなことをやってもお地蔵様の声は聞こえてきません。短気な大家のおじいさんは「まったく、どうしたろうのう。このお地蔵様はぼんくらろっかのう。それともただの石か。」などと挙句の果てにお地蔵様の文句を言い始めました。文句を言いながらも大家のおじいさんはお地蔵様から大金をもらいたいために我慢して掃除をするふりを続けていました。ちょうど掃除を始めて半年後の日にお地蔵様の声がしました。「大家の平吉、そんな掃除をするふりをしてこの私をだまそうとしてもむだだ。お前は生まれてこの方、私に見向きもしなかっただろう。隣のおトラのやっていることを見て、自分もあやかりたいと思ったのだろう。しかしな、平吉よ、お前には財産はあるが真心と感謝の心という目には見えない大切なものがない。お前はおトラの手を合わせている姿を見たことがあるのか。それは美しい姿だ。なぜ美しいかというと、おトラは損得やご利益で手を合わせているのではないからだ。ただただ感謝の心から手を合わせているだけなのだ。私はそんなおトラの真心に心を打たれたのだ。お前のように欲張りで、小ずるい人間の心はすぐに分かるのだ。お前が隣の町の温泉街で土産用として売っているまんじゅうの``あんこ``のことも知っているのだぞ。お前は売れ残りのまんじゅうの``あんこ``を新しいまんじゅうの中に入れているだろう。誰にも気付かれていないと思っていただろうが、そうはいかないぞ。」とおっしゃいました。これには大家のおじいさんもびっくり仰天しました。そして「お地蔵様、何で俺の名前が分かったろうのう。何でまんじゅうのあんこのことも知っていっろうのう。」と聞きました。するとお地蔵様は「私はすべておみとおしだ。何でも分かっている。」とおっしゃいました。これまた大家のおじいさんはびっくりしました。そして大家のおじいさんは「お地蔵様、そんなこと言っても、この世の中、きれい事だけ言ってみても、なかなか通用しねっし、儲からねてね。」と言いました。そうするとお地蔵様は「ほぉほー。それでは平吉、お前は汚い方法で儲けても平気なのか。お前の言い方だとそういうことになるぞ。きれいの反対は汚いということだ。汚いやり方はいつか行き詰り、ボロがでるものなのだ。そして、悪知恵がどんどん出てくるものなのだ。その挙句の果てに、財産もなくし、信用もなくして、すべてを失うぞ。人間は基本というものがある。それを忘れていると、いろいろな問題が出てくるぞ。だから平吉よ、目には見えないものをまず基本にして、大切にしていくことは大事なことだよ。この機会に今までの生き方を振り返り、心を入れ替えて、新たに生きていってみてはどうだ。」とおっしゃいました。すぐにはさすがの大家のおじいさんもびっくりが先で返答に困りました。そして少し考えて「分かったれ。一晩考えさせてくんねろっかのう。」とお地蔵様に申しあげました。するとお地蔵様は「分かった。」とおっしゃいました。

 その夜、大家のおじいさんは一睡もしないで今までの自分の人生を振り返り、自分という人間がどんな人間だったかを生まれて初めて見つめなおしました。その結果、大家のおじいさんは自分のことしか考えない欲張りで、思いやりのない、何事にも感謝のない自己中心の人間だったことが分かりました。自分の本当の姿にはじめて気がついたのです。そして今までのことを悔い改めて心を入れ替えました。もちろん売れ残りのまんじゅうのあんこを新しいまんじゅうの中に入れることもやめることにしました。

早速翌日に隣のおばあさんを自分から誘ってお天道様とお地蔵様に手を合わせました。もちろんおばあさんといっしょにお地蔵様の掃除を真心込めてやりました。そして大家のおじいさんは「もしお地蔵様に俺の悪いところを言ってもらえなかったらとんでもない余生を送るところだったてねぇ。本当にお地蔵様、ありがたかったれ。俺が間違っていたてね、もう何もいらんてね。有り余る財産もあるっけぇ、これからは困っている村人を物心両面で助けっれ。そっれ、みんなを幸せにしますっけ。」と言ってお地蔵様に手を合わせました。するとお地蔵様が「平吉よ、心を入れ替えたのだなぁ。これでお前は極楽へ行けるぞ。人は自分の顔が見えないのと同じく、自分の心というものが見えない。しかし、他人のこととなるとよく見えるものだ。これからは自分を棚に上げて人の欠点ばかりを見るのではないぞ。これからはダイヤモンド魂で生きていくのだぞ。」と言いました。そしてそれが最後のお言葉でした。それっきりお地蔵様は何もしゃべりませんでした。 それからというもの、この村はお地蔵様を「まごころ地蔵」と名付けていつまでも大切にしました。そしてみんなが幸せになったとさ。     
おしまい

まごころじぞう

 むかし、むかし、えちごのくにの、あるむらのはずれに、もう、なん、びゃく、ねん、も、そうじをしてもらっていない、おじぞうさまがありました。ごみやほこり、おちばなどをかぶって、こけなどもはえて、きたなくなっていました。むかしはむらのひとたちが、よくそうじをしてきれいにしていましたが、あるときから、むらのひとたちのこころがかわり、だれもそうじをしなくなったのです。そんなあるあきに、ひとりのおばあさんが、このむらにひっこししてきました。それもこのおじぞうさまのむかいのあきやに、ひっこししてきたのです。このおばあさんは、わかいときから、しんこうしんのあついひとでした。まいあさ、おきては、おてんとうさま(たいようのこと)に、てを、あわせ「きょういちにち、なにごともなく、へいあんにくらせますように。きょうまたこのように、いかされました。ありがとうございます。」といつも、こころからおいのりをささげていました。

 そんなおばあさんが、ひっこしのせいりのついたよくじつに、きんじょに、ひっこしのあいさつをしようとおもって、あるくと、すぐに、ごみやほこりをかぶって、こけが、はえている、おじぞうさまをみつけました。すかさず「おうおう、なんとかわいそうな、おじぞうさま、だこと。」といって、あいさつのことなどすっかりわすれて、いえにそうじの、どうぐを、とりにいきました。そしていっしょうけんめいに、おじぞうさまの、そうじをはじめたのです。もう、なん、びゃく、ねん、も、そうじをしていなかったものですから、それはたいへんでした。あばあさんはひっこしのつかれもわすれ、おじぞうさまをほんとうにきれいにしてしまいました。おばあさんは「あーあ、つかれた。でもおじぞうさまがこんなにきれいになったのでよかった、よかった。そうだ、まいにちそうじをして、きれいにして、おじぞうさまによろこんでもらおう。」といって、いっぷくをしに、いえにかえりました。そのご、あいさつまわりをおえたのでした。

 それからというもの、まいにち、まいにち、おてんとうさまに、てを、あわせ、おじぞうさまの、そうじをし、おじぞうさまにも、てを、あわせる、せいかつをおくっていました。そんな、あるひに、なんと、おじぞうさまがかわいそうだとおもって、おじぞうさませんようの、ちいさな、こやを、たててやりました。おばあさんは「これであめやゆき、かぜにもだいじょうぶ。よかった、よかった。」とじぶんのことのようによろこんでいました。

 おばあさんがひっこしをしてから、さんねんぐらい、たった、なつの、あさに、いつものように、おばあさんはおじぞうさまのそうじをして、てを、あわせて、いえにかえろうとしたとき、「おとら、おとらよ、わたしは、ここの、じぞうだ。まいにちありがとう。」という、こえがしたのです。おばあさんはびっくりして、こしをぬかしてしまいました。いっしゅんなにがおきたのかわからなくなったのです。そしておばあさんは「たしかにいま、わたしのなまえをよんだよなぁ? 」とひとりごとをいいながらあたりをみまわしました。しかし、ひとかげはありませんでした。おばあさんは「ま、ま、ま、まさかおじぞうさまがしゃべったのかな?! 」とまたひとりごとをいいました。するとおじぞうさまが「そうだ。わたしがおまえのなまえをよんでおれいをいったのだ。」といいました。おばあさんは、ゆめか、まぼろしをみているのではないかとおもって、ついほっぺをつねってみると「いたい!! 」とすぐにかんじました。これはゆめでもまぼろしでもないとちょっかんすると われにかえり「おじぞうさま、なんでわたしのなまえがわかったのでしょうか。」とたずねました。そうするとおじぞうさまは「わたしはすべてしっている。このかた、なん、びゃくねんも、にんげんを、みてきた。しらないのはないのだ。」とおっしゃいました。そして「おとら、おまえもだいぶとしをとってきた。のこりすくない、このよで、おまえの、のぞむものならなんでもかなえてやろう。」とおっしゃったのです。これにもおばあさんはびっくりしました。おばあさんはすこしかんがえて「おじぞうさま、わたしはあとせいぜい、ごねん、くらいしか、いきられません。この、のこりの、ごねんの、あいだに、びょうきをしないで、けんこうにいきていければ、こんないいことはありません。のぞみといったらこんなものです。」といいました。そうするとおじぞうさまは「よくのない、おとらだ。わかった。あとのこりのじんせいの、けんこうをおまえにあげよう。」とおっしゃったのです。するとおばあさんは「ほんとうにありがとうございます。」といって、てを、あわせました。

 そしてそのよくじつ、いつもの、にっかを、こなし、いえにかえろうとしたそのとき「おとら、おまえには、しぬまでの、けんこうをさずけた。そして、しぬまでの、くらしにこまらないていどの、かねと、こめを、わたしのきもちとしてさしあげよう。」とおっしゃったのです。するとおばあさんは「あーあー。もったいないことです。ほんとうにありがとうございます。」といって、いえに、かえりました。すると、いえの、げんかん、に、おじぞうさまがおっしゃったとおりの、おかねと、おこめが、ちゃんとおいてありました。おばあさんは「おじぞうさま、ほんとうにありがとうございました。」と、かんしゃのことばを、ささげました。

 きのうと、きょうの、おじぞうさまと、おばあさんのやりとりをみていた、となりのよくばりで、かねもちの、こずるい、おおやのおじいさんは「ははあ。あんなことをおじぞうさまにしてやれば、なんでも、のぞむものをくれるんだな。おれもさっそくまねをして、あしたのゆうがたから、やってみよう。」といいました。

 そのよくじつの、ゆうがた、おおやのおじいさんは、そうじの、どうぐ、をもって、おじぞうさまのまえにきました。おじぞうさまは、おとら、ばあさんが、まいにちそうじをしているので、とてもきれいでした。おおやのおじいさんは、おじぞうさまがきれいなので、そうじをするふりをして、かんたんにそうじをしました。おおやのおじいさんは「まな、こんなことを、なんにち、か、してやれば、おじぞうさまも、きっとおれにこえをかけてくれるにちがいない。」と、かんがえました。しかし、いくらそんなことをやっても、おじぞうさまのこえはきこえてきません。たんきな、おおやのおじいさんは「まったく、どうしたのだろう。このおじぞうさまは、ぼんくらなのか。それとも、ただの、いしか。」などと、あげくのはてに、おじぞうさまの、もんくを、いいはじめました。もんくを、いいながらも、おおやのおじいさんは、おじぞうさまから、たいきんを、もらいたいために、がまんして、そうじをするふりをつづけました。ちょうどそうじをはじめて、はんとしごの、あるひに、おじぞうさまのこえがしました。「おおやの、へいきち、そんなそうじをするふりをして、このわたしを、だまそうとしてもむだだ。おまえは、うまれてこのかた、わたしに、みむきもしなかっただろう。となりの、おとらの、やっていることをみて、じぶんもあやかりたいとおもったのだろう。しかしな、へいきち、おまえには、ざいさんは、あるが、まごころと、かんしゃのこころ、という、めには、みえない、たいせつなもの、がない。おとらの、てをあわせている、すがたをみたことがあるのか。それはうつくしいすがただ。なぜうつくしいかというと、おとらは、そんとく、や、ごりやく、で、てを、あわせているのではないからだ。ただ、ただ、かんしゃのこころから、てを、あわせているだけなのだ。わたしは、そんな、おとらの、まごころに、こころをうたれたのだ。おまえのようによくばりで、こずるい、にんげんの、こころはすぐにわかるのだ。おまえが、となりのまちのおんせんがいで、みやげようとしてうっている、まんじゅうの``あんこ``のこともしっているのだぞ。おまえはうれのこりのまんじゅうの``あんこ``をあたらしいまんじゅうのなかにいれているだろう。だれにもきづかれていない、とおもっていただろうがそうはいかないぞ。」とおっしゃいました。これには、おおやのおじいさんも、びっくりぎょうてんしました。そして「おじぞうさま、なんで、おれのなまえが、わかったのでしょうか。なんでまんじゅうの``あんこ``のこともしっているのですか。」とききました。するとおじぞうさまは「わたしはすべておみとおしだ。なんでもわかっている。」とおっしゃいました。これまた、おおやのおじいさんはびっくりしました。そして、おおやのおじいさんは「おじぞうさま、そんなこといっても、このよのなか、きれいごと、だけいってみても、なかなか、つうようしないし、もうからないのです。」といいました。そうすると、おじぞうさまは「ほぉほー。それでは、へいきち、おまえは、きたないほうほうで、もうけてもへいきなのか。おまえのいいかただと、そういうことになるぞ。「きれい」のはんたいは「きたない」ということだ。きたない(または、わるい)やりかたはいつかいきづまり、ぼろ、がでるものなのだ。そして、わるい、ちえが、どんどんでてくるものなのだ。そのあげくのはてに、ざいさん、もなくし、しんようもなくして、すべてをうしなうぞ。ひとは、きほん、というものがある。それをわすれていると、いろいろな、もんだいが、でてくるぞ。だから、へいきち、めには、みえない、たいせつなもの、を、まず、きほん、にしていくことは、だいじなことだよ。このきかいに、いままでのいきかたを、ふりかえり、こころをいれかえて、あらたに、いきていってみてはどうだ。」とおっしゃいました。すぐには、さすがのおおやのおじいさんも、びっくりがさきで、へんとうにこまりました。そして、すこしかんがえて「わかりました。ひとばんかんがえさせてください。」とおじぞうさまにもうしあげました。するとおじぞうさまは「わかった。」とおっしゃいました。

 そのよる、おおやのおじいさんはいっすいもしないで、いままでのじぶんのじんせいをふりかえり、じぶんという、にんげん、がどんな、にんげんだったかを、はじめてみつめなおしました。そのけっか、大家のおじいさんは、じぶんのことしかかんがえない、よくばりで、おもいやりのない、なにごとにも、かんしゃのない、じぶんちゅうしん、の、にんげん、だったことが、わかりました。じぶんのほんとうのすがたに、はじめて、きがついたのです。そして、いままでのことを、くいあらためて、こころをいれかえました。もちろん、うれのこりのまんじゅうの``あんこ``を、あたらしいまんじゅうのなかにいれることもやめることにしました。

 さっそく、よくじつに、となりのおばあさんを、じぶんからさそって、おてんとうさまと、おじぞうさまに、てを、あわせました。もちろん、おばあさんといっしょに、おじぞうさまのそうじを、まごころをこめてやりました。そしておおやのおじいさんは「もしおじぞうさまにおれのわるいところをいってもらえなかったらとんでもないよせいをおくるところでした。おじぞうさま、ありがとうございました。おれがまちがっていました。もうなにもいりません。おれには、ざいさん、がいっぱいありますので、これからは、こまっているむらびとを、ぶっしんりょうめんで、たすけます。そしてみんなをしあわせにします。」といって、おじぞうさまに、てを、あわせました。するとおじぞうさまが「へいきちよ、こころをいれかえたのだなぁ。これでおまえはごくらくへいけるぞ。ひとはじぶんのかおがみえないのとおなじく、じぶんのこころというものがみえない。しかし、たにんのこととなるとよくみえるものだ。これからはじぶんをたなにあげて、ひとのけってんばかりをみるのではないぞ。これからはダイヤモンドだましいでいきていくのだぞ。」といいました。そしてそれがさいごのおことばでした。それっきりおじぞうさまはなにもしゃべりませんでした。 そりからというもの、このむらは、おじぞうさまを「まごころじぞう」となづけて、いつまでも、おじぞうさまをたいせつにしました。そしてみんながしあわせになったとさ。      おしまい

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